現在転職活動をしていて香港を離れるかもしれない2017年ですが、15歳だった30年前にまさか30年後に香港にいるとは想像もしていませんでした。
高校受験の真っ只中、志望校の願書を取りに行った帰りの夜
母親が新所沢駅に迎えに来てくれ、その帰りの車で聞いた香港への引越し
中2で偏差値60ギリで通い始めた塾
最初に通った県内の塾では何故かいじめにあい、都内の塾へ変更
都内と言っても所沢から近い清瀬でしたが、埼玉県人と違って垢抜けていて楽しい人達に囲まれて楽しかった塾通い
なんとか偏差値を上げるために3教科に絞って3年の夏には3教科偏差値74以上まで上げ臨んだ高校受験
その終盤に受かろうが関係無くなったのを知って全てが目の前から崩れた気がしました
その上友達には言わないように口止めをされていたので、親友にも相談が出来ず卒業までの3ヶ月ずっと胸の中に溜め込んでいました
形式だけの受験
結果に一喜一憂するクラス内
卒業式で涙する担任
全てを冷めた目で見ていた15の春でした。
その後英語の勉強で引越しまでの2ヶ月間英語塾へ通う事に。
クラスメートは夏からアメリカに留学をする高校生達
僕は一番年下で、年上の男女に可愛がられながら楽しく過ごしました
留学経験のある20代の先生達から聞く海外生活の話
ただ僕はアメリカじゃなくて香港
ちょっと違うんだよなぁ〜とここでも冷めた目で見ていました。
5年生の時から飼っていた愛犬は、引越しが決まった数週間後に吐血
そして最初の飼い主の親族に引き取ってもらい
先に香港に赴任する父親が出発する数日前に体調が悪化し、うちに戻ってくることに
その晩、英語塾から帰ってきた僕を待った後、家族全員が揃った後に息を引き取ってしまいました。
そんな事があって、全て香港行きが悪いと憎んだ30年前の渡航でした。
日本最後の数日間は長崎から上京した国分寺のおばあちゃんの家に泊まり過ごしました。
それまで遠いところにいたおばあちゃんと毎日色々話す事が出来て、昔怖かった印象が変わり、とても有意義な時間がすごせました。
と言いながら長崎弁は半分もわかりませんでしたが…
そして香港へ
飛行機で到着する頃にはすでに外は暗く、台湾上空以降真っ暗な海がずっと続いていたところに、突然大きなオレンジの光が飛び込んできたのが第一印象でした。
世界でも有名だった香港着陸は圧巻でした。
着陸してドアが開いた瞬間にカイタックの溝の臭いと物凄い湿気がまとわりつき、我先とトラップ下のバスへ押し入る香港人にムッとしながらアジアを感じました。
迎えに来た父親は母親を飛行場からデートへ連れ去り、僕と弟は父親の部下の人にダンボールが積み上がったマンションへ。
車の中ではそのおじさんが色々聞いてきましたが、全然頭に入らず、『灯はオレンジなんだ』『電柱ないんだ』とか考えながらただただそこにいる意味が全く理解できていなく、全てが嫌でした。
その時の光景は未だにはっきり覚えています。
家に着いて、まず弟とテレビを点けて、冷蔵庫にあったMr. Juicyを飲みながらミス香港を見ました。
Mr. Juicyは最初に香港で口にした香港の食べ物
正直カビ臭くて不味かったです。
そしてデーモン小暮のようなメークをしたミス香港は正直タイプでなく、これが香港最高の美人なら…ととにかくネガティブに…
ちなみに1987年のミス香港の様子は↓積み上がったダンボールからファミコンを探して付けてみると、今まで知らなかったテレビ規格の違いを知ることに。
今ではマルチ仕様なのでNTSCだろうがPALだろうがテレビが対応しますが、その頃は国をまたいでテレビが使われるような想定で作られていないので、使える訳がなく…
テレビは英語2ちゃんと広東語2ちゃんだけだし、とにかく最悪でした。
それが30年前の僕の香港でした。